心からつながる子育て            ~子どもの成長に合った向き合い方~

まえがき

 この本を手に取っていただきありがとうございます。
 あなたが女性ならば、未婚、既婚、年齢を問わず、子どもを産むということについて、一度は考えたことがあると思います。
 今の時代は、いわゆるイクメンも多いので、子の誕生や育児を真剣に考える男性も増えているのかもしれませんね、そんな方にも読んでいただけたらうれしいです。
 女性なら漠然と「出産痛そう」とか、または子どもが大好きだから、早く欲しいと願っているかもし れません。でも冷静に考えちゃう人は、「無事五体満足な子を産めるのか」「障害児が生まれるリスクと その責任を一生持てるのか」とか、「子どもができたら遊べなくなって自分を犠牲にしなくちゃいけない のだろうか」「お金はどのくらいかかるのだろうか」などなど、現実的なリスクばっかり考えてしまうか もしれません。

 私は、といえば最初の結婚で流産し、でもそのときは流産だとわからなかったので、子どもを授かった実感はありませんでした。再婚する前、もう結婚しないだろうと思っていたので子どものことなど考えてもいませんでした。それに私はそもそも子どもが嫌いでした。
  自分の子ども時代が悲惨だったせいで、子どもに対するいろいろな偏見がありました。
 再婚することは、年齢的にいっても子どもを作るかどうか真剣に考えなければならない、そういう時期だったといえます。
 出産前は、「こんな私に育児がちゃんとできるのか」そんなことも考えました。悩んでいるときに、「みんながやっていることだから大丈夫よ」とか言われたときは、「みんなはうまくできたかもしれないけど、私はみんなと同じかどうかわからないよ。この人はなぜ私とみんなが同じだと言い切れるのだろう?」とわけもなく腹が立っていました。それだけナーバスになっていたのだと思います。
 まあ「みんなが~」って言われても、それはあまり励ましにはならない言葉だと、今でも思っています。

 この本で、そんな子ども嫌いな私が子どもを産むことを決断して、子育てを経験したその結果気づいた、実は子どもを持つって本当に素晴らしいこと、子育ては大変なことばかりじゃないこと、何も恐れないで大丈夫っていうこと、そして私が経験した子育てで大切にしてほしいこともお伝えできたらいいなと思います。
 いわば私のチャレンジの実録です。正確には、まだ続いています。
 お母さんになって、育児をしてみて、楽しいこともたくさんありましたが、どうしていいかわからなくて思わず「お母さん辞めたい」と涙したこともありました。それをどう乗り越えたのか、そして私が「わかった」ことを、書きました。

 この本を男女問わず、今子育て中の人、これから出産する人に贈ります。
 ここに書いた何かで、誰かの背中を押すことができたり、何かの参考になってくれたりしたらとてもうれしいです。

目次

まえがき  

第1章 自己紹介

1 育った環境 
2 家族との関係 
3 青年期の私 
4 自立してから結婚まで 
5 子どもを産むことを決心してから 

第2章 出産と環境について

1 出産 
2 パートナーさんに知っておいてほしいこと 
3 子どもとの生活スタート 
4 考えは伝わる 

第3章 幼児期の向き合い方

1 大切にしてほしいこと 
2 3か月~1歳まで 
3 2歳(反抗期イヤイヤ期) 
4 3歳(なぜどうして期と反抗期) 
5 幼稚園・保育園時期 

第4章 学童期の向き合い方

1 しつけや諭し方、叱り方で知っておいてほしいこと 
2 学習することについて 
3 低学年の生活 
4 高学年の生活 
5 いじめや不登校について 

第5章 思春期、反抗期の向き合い方

1 「思春期」と「反抗期」について
2 「甘え」と「甘やかし」について
3 「問題行動」について
4 「過干渉」と「過保護」について
5 体の成長について
6 中学生や高校生の生活と「うつ」と「受験」

第6章 ふりかえり

1 良好な親子関係を築くために
2 期限のない究極の願い
3 子どものころを振り返ってみて
4 お母さんが笑顔ならすべてうまくいく

あとがき

第1章 自己紹介

1 育った環境

 東京都大田区、蓮沼の産婦人科病院で生まれ、私が生まれたときは、父、母、3つ年上の兄、私の4
人家族でした。
 生まれてすぐ住まいを引っ越ししたのか、その前なのか、はっきりわからないのですが東京都大田区蒲田というところから引っ越して、神奈川県川崎市の平間というところにあった父の会社の社宅に3歳まで住んでいました。2階建て社宅の1階6畳2間のおうち、今でいう2Kでしたが、私には随分広く感じました。それに当時はまだ珍しい水洗トイレでした。
 余談ですが、生まれてからずっと水洗トイレを使っていたので、母の実家、茨城県の山奥の田舎に遊びに行ったときの、くみとり式トイレへの抵抗感が半端なかったです。私が子どものころは近所の家もみんなくみとり式だったので、小さいころはトイレの怪談話とか信じてしまって怖かったです。近所は下町風の路地の多い住宅密集地で、私はよく近くにあった神社の境内で遊んでいました。お祭りなんかも、子どもたちはみんな同じ法被を着て足袋を履き、祭り化粧をしていたのを覚えています。昨今はなくなりつつある、お祭りらしいお祭りでした。
兄は近所の幼稚園に通っていました。母に手を引かれながら、多摩川の土手を歩いてお迎えにいったのを覚えています。ぼんやりと私もこの幼稚園に行くのだと思っていました。
 当時、私は小児喘息を患っており、2歳ぐらいのとき「もっと空気のいい土地に引っ越せば治るかもしれない」とお医者さまに言われたそうで、そのせいかどうか今はもう定かではありませんが、4歳で横浜の片田舎に引っ越すことになりました。それまで環状八号線沿いの街路灯が一晩中煌々としている街中に住んでいたのに、街路灯なんて1本もなく、日が落ちると本当に真っ暗になってしまう田舎に来て、私はしばらくの間、「早く(川崎の)おうちに帰りたい」とずっと思っていました。川崎のうちから引っ越し用のトラックに乗って、近所のお友達に手を振っていましたが、まさか二度と帰ってこないとはまったく思っていませんでした。横浜に来て4日目ぐらいに、母に「いつおうちに帰るの?」と言ったら「もう帰らないわ、ここがおうちなのよ」と言われたときには、悲しくて目の前がくらくらした衝撃をうけたのを覚えています。「そんな、バカな……」という感じでした。

 この引っ越し先は周辺に5~6件の家、他は空き地と田んぼばかり、大きめの川が流れていて、川の
向こうは竹やぶと林、というか、『となりのトトロ』の映画に出てくるような小高い山、大きな木々が
ある森でした。お医者さんは歩いて15分ぐらいのところに、同級生の家でもある小さな診療所があるばかり。お店は近くには乾物屋さん、床屋さん、お茶屋さん、お肉屋さんがある以外お店はなく、文房具を買うには、歩いて20分ぐらいの学校の近くまで買いに行かなくてはなりませんでした。一番近い駅までは、大人の足で歩いて20分、バスに乗れば15分ぐらいだったかと思います。今までとの生活の違いにびっくりすることばかりでした。
 しかも、見知らぬ幼稚園に1人で通うことになり、ずっと心の中で「行きたくない、行きたくない、行
きたくない」と言っていました。このころの私はぼんやり生きていて、「行きたくない」と母に強く言う
ことができませんでした。まあ、言えたとしても近所にはこの幼稚園しかなかったので、そこに行くこ
とにはなったと思いますが。

 小学校は小高い山の上にあり、子どもの足で歩いて20分ぐらい、中学校もやはり丘の上で、子どもの足で20分ぐらいの距離感でした。高校は家から1時間半かけてそんなにレベルの高くないミッションスクールの女子高に行きました。今は共学になっているそうです。
 このころは家から山の上の小学校が見えていました。父が亡くなってしばらくして、この家から家族全員が引っ越すころには、マンションや団地がたくさんできて、小学校もすっかり見えなくなっていましたが、建物がたくさん建つ前、建て替え前のおうちの2階の窓からの景色は、今でも覚えています。街灯がないから、夜は星がきれいに見えていました。夏はよく屋根に上って星を見ていました。

2 家族との関係

 横浜に引っ越したときに、蒲田にいた父の両親ときょうだいも一緒に引っ越してきました。一戸建て4LDKの家にいきなり8人という大家族になりました。
 私は小さかったのであまりこの人たちとの思い出がありません。どちらかというと邪険にされていたような思い出しか残っていません。小さい子どもが煩わしいという空気があったような気がします。子どもが嫌いな人たちだったかもしれないし、4LDKとはいえ、8人家族で人が密集していたので、単に居場所がなかったのかもしれません。そして、しばらくすると曾祖母が横浜のおうちに引き取られてきました。私の父方の祖母の母です。これで家族は9人になりました。

 母と姑(私の祖母)は仲が悪く、そのせいか私は、この祖母と叔父、叔母たちからはあまりかわいがられた記憶がありません。舅(私の祖父)と曾祖母だけが、いつもニコニコしていてくれたような気がします。
 舅は喘息持ちで体が弱く、働くことができない人でした。父の妹(私の叔母)は、今思い出すと不思議ですが、週に2~3日しか仕事に行ていないような感じで、一日中寝ていたような記憶しかありません。いつも具合が悪く、家事手伝いは一切しない人でした。父の弟(私の叔父)はまだ大学生でしたが、引っ越して間もなく卒業し、卒業後はとある会社の令嬢の婿養子に出ていきました。無口で静かな人だったように記憶しています。
 曾祖母は、横浜のうちに来たころは、まだ元気に庭の掃除やらを手伝っていて、でも1年ぐらいした
ら寝たきりの生活になってしまいました。私が時折幼稚園で折った折り紙を持っていくと、とてもうれ
しそうにニコニコしてくれたのを覚えています。

 私の兄はエネルギーが有り余っているようなやんちゃ坊主で、母はとても手を焼いていたようです。兄は私と2人のときはやさしいのですが、母が来ると、私を邪険にしていました。今思うと赤ちゃん返りでしょうか。小学校のころは、よくきょうだいげんかもしていました。
 昔のことですから、兄は一家を継ぐ長男として大切にされていたように記憶しています。母もやはり、「長男」=「将来家督を継ぐもの」という体で兄を大切にしていたと思います。父は兄に厳しく、かわいい反面まだまだだな、みたいな見方をしていたようです。

 母は毎日9人家族の面倒を一手に引き受けており、朝から晩まで家事をしていました。朝食作り、洗濯、掃除、昼食作り、曾祖母や祖父の介護をし、買い物に行き、夕飯作り、風呂を洗い、湯を沸かす。食事や洗濯物の量も9人分なので、私や、兄とゆっくり話をする余裕はありませんでした。私から見て叔父叔母にあたる若い人は、家事一切を手伝う様子もなく、私の目には、母は家政婦のように見え、母に
甘えたいというより、母のことを、かわいそうにと思っていました。それでも、冬によく2階のこたつで里芋や栗をふかしたのを母と兄の3人で食べていたときは、母はニコニコしていてくれて、幸せそうだったなと思いました。
 そんなふうに苦労してきた母なので、きっと私の高校進学のときに、よかれと思って自分が行きたかっ
た理想の女学校へ私を入れたんじゃないかと思います。

3 青年期の私

 小学校、中学校とずっと陰湿ないじめを同級生から受けていました。母に言っても、先生に言っても、そのころは「子ども同士のけんかだから」みたいに取り合ってはもらえませんでした。
 今思うと、そのいじめていた子は私の境遇がうらやましかったのだと思います。大きな家に住んでいて(9人家族ですからね)、ピアノもあるし、学校でも素行がいいと(単におとなしかった)思われていたし。母は学校の役員で、先生たちとも仲良しだったみたいだし。隣の芝生はよほど青く見えたのでしょう。小学校2年から8年間いじめが続きました。
 このいじめのせいか、若いころの私は女子を信用しない無口で性格のきつい子どもだったように思います。仲良しだと思っていた女子も、そのいじめっ子の「いじめてこい」の号令で意地悪をしにきて「○子ちゃんの命令だからごめんね」と言い訳をしながらいじめていくのでした、「これだから女子は信用できない」と思ったものでした。男子はそういうのにかかわりたくないのか、遠目で見ている感じで、「世の中はこんなものか」なんて思っていた暗黒時代でした。
 そんな様子でしたから、幼稚園から中学卒業まで、特別親しくする子はいませんでしたが、ただ中学校では、委員会活動を通じた同級生、上級生と仲良くなり、生徒会活動を一緒にしたりする仲間がいたので、片方で執拗ないじめがあったにもかかわらず、楽しく過ごせたと記憶しています。生徒会、委員会など生徒会活動には、いじめっ子の女子は無縁なようで、そういう場で顔を合わすことはありませんで
した。クラスの友達、同級生よりも、生徒会室で生徒会の仲間といることのほうが楽しかったので、中学生の後半は生徒会に救われたと思います。

 高校進学のときは、自分の進みたい方向(工業高校)があったにもかかわらず、母の猛反対で、私立の女子高に行くことになりました。母は自分が行きたいと思った学校に行かせたかったのでしょう。
 それは私のためというよりも、いわゆるお嬢さま学校から大学へ進学させ、一流どころの会社に勤める男性とお見合い結婚をさせ、経済的安定の中で専業主婦をして、幸せな家庭を築く=女性としての幸せの極み、という構図があったと思います。
 しかしながら、そのころの私は見た目こそ控えめでしたが、やることがやんちゃでしたので、性格的にもその私立学校が向いていたとはいえないと思いました。
 私の性格や、将来の夢などまったく無視された結果、「私は高校の3年間はあなた(母)のために我慢して卒業をしますが、そのあとのことは、私の人生なので、私の好きにさせていただきます」と母に宣言し、高校もギリギリの出席日数と単位でめでたく卒業。
 高校時代のクラスメートとは、そこそこ仲良しで、グループ旅行なんかにも行きました。でも特別親
しい人はいませんでした。そしてバイト命のJKでした。家から10分ぐらいのところにケンタッキー・フライド・チキンができて、2年ぐらいバイトをしていましたが、そこでのバイト仲間との交流が一番楽しかったように思います。

 さて、高校卒業式の翌日の話ですが、荷物をまとめて、出て行こうとしていたとき、母に「何をしているの?」と聞かれ、「この家を出ていきます。高校入学のとき、言いましたよね。卒業したら好きにさせてもらうと」と言うと、母は慌てていましたが、私はお構いなく出て行ってしまいました。貯金なんかほとんどないし、就職のあてもなかったし、公園野宿の覚悟でまだ寒い3月初旬に出て行きました。

4 自立してから結婚まで

 家を出てからは、友達の力も借りつつ、アパートを借り、就職先(ダブルワーク)も決め、なんとか1人暮らしをするようになり、彼氏もできて同棲するようになりました。同棲してみた感想は、「男はわがままでお金がかかる、面倒くさい、別れたい」。そう思っていたころ「父危篤、すぐ帰れ」みたいな連絡が。音信不通から7年ぶりに実家に戻りました。私の部屋だった場所は倉庫になっていて、なんとか無理やり片付けて寝られるスペースを確保しました。もう戻ってこないつもりだったし、本当に音信不通だったので部屋がなくなってもしかたないと思っていました。
 私はそのとき、仕事を辞めて無職、というか自主的にクビのような状態になっていました。そのわけは会社の社長が、今でいうDVとパワハラで、頻繁に会社の金を横領していたのですが、ある日会計士が会長に、「お金がなくなっている」と報告、会長が激怒し原因を追究しろと社長に命令。社長は真実を知っている経理の私が会社に来るとまずいと思ったのでしょう。なんと私の机にお金を隠すという裏工作までして、私が横領したのだと言ったそうです。
 周りの人間は事実関係を知っていましたが、社長のDVが恐ろしくて真実を口にする人はいませんでした。そこで私が辞めて逃げたら犯人と認めたみたいになって、逃げたくはなかったのですが、別の上司から「社長と争っても常識が通じる相手じゃないし、陥れられるだけ、無事では済まないかもしれない(殺されるかも)、よくて半殺しだから、逃げたほうがいい。この会社に正義なんてないから、早々に去ったほうがいい」と言われました。社長は空手をやっていて、気に入らない人間はよく半殺しにされているのを見てきたので、私も「確かにそうかも」と思い、いなくなることにしました。会社からは訴えられることもなく、なんの音沙汰もありませんでした。当然ですけどね。そんなわけで給料も退職金も受け取ることができませんでした。そんなときだったので、家に帰る口実ができたことは、渡りに船なのでした。

 さて、父のことですが、危篤と聞いたので相当悪いのかと思っていましたが、私が家に戻ったときは、命はとりとめており、家族は落ち着いていました。しかし、看護のために誰かがしばらく病院に通わないといけないという話になり、「いいよ、私が実家に戻って病院に毎日通うよ」と言って、彼氏とも別れて実家に戻りました。
 幸い父は元気になりました。技術職から内勤になりましたが、夜勤などがなくなり、静かな暮らしが戻ってきました。私はデパートに就職し、実家から通う生活をしていました。実家の生活は平穏で静かな暮らしでした。父が元気になってから、兄が嫁をもらって家を継ぐ前提でおうちを新築することになりました。設計図を見せてもらったときに、「えー私の部屋は、ないのー?」と言ったら兄に「先々嫁に行くのだから当たり前だろ」と言われたのが、内心「嫁に行かないといけないのか……」と複雑な感じでした。家を建て替えるために、台風が来たら吹き飛んでしまいそうなボロ家に家族4人で仮住まいをすることになりました。それまで一緒に住んでいた父のきょうだいはすでに嫁に出たり婿養子に出たりしていて、祖父は私が9歳ぐらいのときに亡くなっており、1人残った祖母は、新しいおうちができるまで、すでに嫁いで私と同じ年代の娘2人がいる自分の長女(私からみて叔母)の家に仮住まいをすることになりました。

 私たち家族4人は、4畳半、6畳の2Kで、布団を敷くだけでいっぱいでしたが、案外面白かったです。それは昔住んでた川崎のおうちに似てる(水洗トイレ以外は!)と思っていました。インフルエンザにかかったのが、約1年いたそのあまりにも隙間風の多いボロ家での思い出です。

 新しいおうちができてほどなく、私は最初の結婚をして逗子海岸に住みました。しかし3年で破局。なんとパートナーがギャンブラーで、違法賭博などや内緒の借金が発覚したことに加え、流産、DVをきっかけに離婚にいたりました。それまでパートで働いていたメガバンクを辞めて、誰にも頼らずに生活していくために、手に職をつけようと設計事務所に再就職、その会社から出向したスーパーゼネコンで2人目のパートナーと出会い、再婚しました。再婚したいと思っていたわけではないのですが、パートナーに押し切られて結婚することになりました。同じ年だったので、どちらかというと、パートナーのほうが焦っていたのかもしれません。決してモテないタイプのパートナーではないと思いますが、そのときは結婚願望が強かったように思います。

5 子どもを産むことを決心してから

 再婚したのが29歳、当然出産を考える年齢でした。私は子どもが嫌いでしたから、子どもを育てるなんて、できるように思えなかったので、夫婦間で話し合いをしました。そのときのパートナーの仕事は今でもブラックに近い状態で、ワンオペ育児は必至でした。しかし、パートナーは「どうしても子どもは2人欲しい」と言い、「育児を手伝うことができるの?」と聞いたら、「頑張ります」という返事だった。
 そんな空手形ではとても産む気にはなれなかったのですが、ある日ふと友達に「子どもを持つ親の気持ちは、子どもを持った親にしかわからない」と言われたのを思い出しました。
 私は、流産もしたけど、子どもを失って悲しいという気持ちではなかった。でも本当に「子どもを産まないとわからない」のかどうか「子どもを産んで、育てないとわからない」と思いました。「私は出産できるし、子どもを持つ機会も来た、検証しなくていいのか? 産まなかったことを後悔しないのか?」そういう考えが湧いてきて、「やっぱり子ども産んでみよう」と決心しました。そのときは一人っ子のつもりでした。だって子どもが嫌いですから。「1人ならなんとかなるかもしれないし、1人だっていいじゃない」そんな考えでした。子ども大好きの方には、「そんな理解できない考え方で子ども産むなんて!」と思われちゃうかもしれませんが、私はたぶん子育てで〝いっぱいいっぱい〟になるだろうと思っていたし、まだ子どもに対する愛情が持てるのかどうかさえわからなくて、すごく不安だったのです。

 子どもを産むと決めたのに、全然妊娠の兆候もなく2年、3年と過ぎ、私のような不謹慎な考え方では、子どもは授からないのかもとあきらめていたある日、とうとうその兆しがやってきました。風邪ひいたかな? と思ったのですが、なんとなく何か違う気がすると思い産婦人科に行ってみました。予感的中!「やったー妊婦だー」と内心ものすごくホッとしたのと同時に、「どうしよう本当に出産だ」と青くなったのでした。
 妊娠中、子育てのことを考えてブルーになることが多くなって、イライラするようになりました。パートナーから精神環境を変えるために、猫を飼うことを提案されたので、飼ってみることにしました。もちろん猫の病気の検査などもちゃんとしました。子猫のお世話に一生懸命で、その間神経質にならずにいられました。2~3時間ごとのミルクとか、排せつの要領や、子猫の体調管理が精神的にも、作業的
にもプレ育児(笑)になったかもしれません。心も落ち着いてきて、これは案外よかったかなと思いました。動物がいるって癒やされますしね。
 妊娠がわかってしばらくすると、流産の兆候があり、産婦人科で安静に、と言われました。そういえば前回流産したときも、「4か月までは安静にしないと」言われたことを思い出し、無理はしないと決め、ゆるゆると生活をすることにしました。そしてそんな安静状態中に事件が起こりました。
 パートナーの会社はブラックだったので帰宅は深夜、私はほぼ毎日1人暮らし状態の中、彼の会社同僚の女性が毎週土日に電話をかけてきて、毎回3時間ぐらいおしゃべり。彼は仕事のことだからと言っていましたが、会話内容は世間話。そのうちその女性が家に押しかけてくるということが起きました。
 安静中だったし、「来るのを断ってほしい」と言いましたが、パートナーは「断れない」と言って口論になり、それきり口もきかず、同僚の女性が家に押しかけてくる当日を迎えました。その日は、みぞれが降ってきた日だったと思いますが、彼女は挨拶もせず、来るなり「自分を歓迎するためにどんなごちそうをしてくれるのかしら?」と言ってきました。私は「何? どういうこと?」とあきれてしまいましたが、「どうぞ、ごゆっくり」と言って自分は外出してしまいました。夜まで外をふらふらしていました。ちらっと「流産するかもしれない」と頭をよぎりましたが、家に帰りたくありませんでした。さすがに帰ったかなという時間に家に戻り、パートナーに事情を聞きました。
 パートナーは会社で毎日夜遅くまで、その同僚の女性といちゃついていたようです。本人は「すごく仲良し程度のつもりだった」と言っていました。でも女性の気持ちにうとい、とはいえ特定の女性に必要以上にやさしくすることや、朝から夜中まで一緒で社内とはいえ夜2人きりでは、さすがに勘違いされても仕方ないか、といったところでしょうか。私のことは大切なパートナーというより、自分のお母ちゃんの感覚だったのかもしれません。
 私がパートナーに「〝仲良く、親切にする〟ことと〝なれなれしくする〟ことは同じではないし、会社の同僚としての礼儀や線引きがされていない。あなたのその行いは尊敬できない」と伝えたら、なんとパートナーは私のその言葉をそのまま電話で彼女に伝えていました。まるで、「お母さんに怒られたから、やめる。でもそれは自分が悪いことをしたからではない」といったようなスタンスでした。電話口では彼女と口論になっているようでした、電話口の向こうの彼女の割り切れない怒りが、目に見えるようでした。
 私は内心「それ自分(パートナー)のことでしょ、彼女は勘違いしただけで、一番悪いのは、きちんと線引きできてなかった自分(パートナー)じゃないの」と思いました。なのに、あたかも彼女の独り相撲にしようとしている彼が、なんかとてつもなく嫌な人間に見えました。それものちの離婚につながったかと思います。

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