理想の親像・理想の子ども像
完璧さを求め出すと、その理想に近づくために、理想の親像・理想の子ども像を作ってしまいます。
自分自身で理想の自分をイメージして、そのイメージに近づくために努力することは大切です。
でも、親子の関係性となればちょっと違います。
親の思う理想が、子どもにとっての理想とは違うかもしれないし、
そして、そこに社会通念や常識にとらわれた価値観が加わると、本当に厄介なことになりかねません。
自分自身の価値観を持って、自分を生きる選択より、社会に合わせたり、
他人と同調したりすることが理想であるという考えになってしまうと、とても怖いです。

例えば、もう最近はそんな考えは少ないかもしれませんが、子どもはしっかり勉強していい学校に行き、いい会社に就職すれば安心。
この考えは、私の時代にはよくいわれた理想の人生でした。
この社会も認めた理想のレールを歩くことが本当に幸せなのか?
それを自分の子どもの性格、本質、想い、そして子どもの理想を話し合いながら、決めていくことがとても大切なはずです。
社会生活をする上で、人とうまく調和を取って生きることは大切です。
でも、価値観の全てが自分軸ではなく、他人軸になってしまうと大変です。
人は一人で生きていけるわけではありません。
でも、自分の軸がないまま調和するのと、しっかり自分の軸を持った上で調和を保つことは、意味合いが違ってきます。
もし、曖昧な基準のもと、自分の信念がないまま理想のみを追いかけたり、社会に同調していたりしたらどうなるでしょうか?
自分の本当の想いと現実の間で苦しくなってくると思いませんか。
そして、その後も、苦しむだけでなく、その理想の自分になれなかった時、どうなるでしょうか?自分を見失ってしまわないでしょうか?
大人となった親自身の場合は、何とか立て直せたとしても、子育ての場合、子どもが理想から外れたらどうなるでしょうか?
親は、子どもをダメな子、勉強も運動もやる気が全くないと評価し、今からそんな状態でどうするの?と子どもを責めるかもしれません。
自分の理想通り、思い通りにならない子どもを目の前にして、イライラしたり、怒ったりしてしまうかもしれません。
そんな経験を少なからずされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、本当は親の理想の子ども像がその子に当てはまっていなければ、
それは現実として子どもにとっては、親のこだわりや押しつけとなってしまうのです。
親も今一度そのことを考えてみないといけない気がします。
社会や集団の中での子どもを見るだけでなく、個としての子どもの想いを聞き、その想いに寄り添ってあげることも必要だと感じます。