わたしは誰? ~マイナスから180度変化し 愛せるまでの軌跡~

はじめに

 はじめに、この本を購入して読んでくださっている方に心から感謝いたします。

 はじめまして、竹本祐子と申します。

 この本を書くことになったいきさつを少しお話ししますね。
 私、実はほとんど本を読まないのです。
 いえ、読まなかった、が正しいかな?
 では、そんな私がなぜこの本を書くことになったのかというと。

 2020年の7月、私のブログに突然メッセージが届いたのが始まりです。
 「本を書いてみませんか?」

 そのときの私の頭の中の思考はというと、はっ? 本を書く? 私が?
 この人は何を言ってるのだろう?
 
 そんな感じでした。
 今までの私の人生、本をほとんど読んだことがないし、ましてや本を書く?
 考えたことも想像したこともなかったから思考が一瞬止まりました。
 
 私、騙されている?
 そんなことも思ったりして。

 とりあえず、嘘でも良いから話を聞いてみよう!

 だってこれから先こんなお話がくることはないと思うし、もし現実化したらすごくない?
 えっでもさ、書けるの? 無理じゃない?

 たくさん、本当にたくさん自問自答しました。
 そして出した結果は、こんなチャンスめったにこないでしょ?
 どんなことでも聞いてみなきゃ、やってみなきゃ始まらないし、ちょっとドキドキ楽しいかも。
 自分の選択は全部OK。
 大変さもあるだろうけどとにかくやってみよう、って。

 何せ本を読まなかった私が本を書くのです。
 すべてがわからないことだらけ、初めてすぎて、何をどうしたら良いのかも、何から始めたら良いのかもわからない。
 それに私はパソコンや機械系が苦手。
 ひとつひとつ調べてはわからなくて何度も手が止まり、時にはパソコンに詳しい友に助けを求めながら。
 それと、何よりこのお話をくださったGalaxyBooks株式会社の栢木様は丁寧に教えてくださり本当にお世話になりました。

 この本を、私の今までの人生のすべてをかけて書き始めます。

 この本が誰かの目に留まり、手助けになること。
 誰かの人生が笑顔になること。
 
 そんな気持ちで書き始めます。
 目に留めて読んでくださる方に感謝を込めて。

CONTENTS

はじめに  P2

第1章 人生の半分以上自分のことが嫌いだった

自信がなくおどおどしていた P12
結婚生活で学んだこと P17
すべてが中途半端でネガティブ P23
白か黒のどちらか P26

第2章 子ども嫌いだった私の子育てでの変化

長女出産~長女の子育て P32
心臓病の長男出産 P39
親子の関係と未婚の母 P46
食の変化~ジャンクからオーガニックへ P50

第3章 スピリチュアルとの出逢い

潜在意識 P58
エネルギー P63
潜在意識とヒプノセラピー P67
ヒーリングとリーディング P70
意識と波動とフラワーエッセンス P73

第4章 人生の変化

自分は映画の主人公 P78
自分軸で生きる P82
ネガティブ=×じゃない P85
すべては必然 P88
ジャッジはしない P91

第5章 自分を信じる力

潜在意識フル活用 P96
不安と向き合う P100
未来との日記 P103
自分との対話 P106
メッセージに耳を傾ける P108
心地よくフラットに P111

おわりに  P117

第1章 人生の半分以上自分のことが嫌いだった

自信がなくおどおどしていた

 はじめに書いておくと、今現在私は自分のことは大好きですべてを愛しています。
 でも私の人生の半分以上自分のことが大嫌いでした。その私が自分のことか好きになれるなんて思いもしなかった、そんな嫌いだった過去も思い出しながら書いていきます。

 子どものころから怒られることはたくさんあっても、誉められたことは記憶になくて、そして怒られるとすぐに外に出されていました。しばらく外にいて母の「お父さんに謝って中に入りなさい」その言葉で謝って入れてもらう。それだけは覚えているのですが、でも不思議に何を怒られていたか内容は全然覚えていないのです。
 そしていつも姉とは喧嘩ばかりしていました。その姉ともいつもすごく比べていました。自分には良いところが1つもなくコンプレックスの塊で人と比べてばかりで、他の人がとても輝いて羨ましく見えていたのです。人と比べるから苦しくなり自信もなく、とてもおどおどしていて自分の意見も言えない、常に心の中で思ったことを「これを言ったら怒られるかな、嫌われるかな?」が基準になって一旦考えてから口に出すのが当たり前になっていました。
 だから言葉数も必然的に少なくなりました。怒られないようにいつも気を張りながら。はっきり言って暗く、いつもいじけてひねくれた子どもでした。でもこんな本当の自分のことを知られるのが嫌で全力で隠していました。本当の自分を知られるのが怖かった。そして、いじめられたり、仲間はずれにされても親には言えず黙って我慢するのが当たり前。そして人見知り。今私を知る人からは想像できないと言われますが
 
 私は両親と2つ上の姉との4人家族です。3歳までは東京の下町で暮らしていました。
 父は中卒で鹿児島県の屋久島から単身上京して大工になり、その後独立して工務店をしておりました。その父を支えていたのが母です。私が小さいころはよく「お前が男だったら教えてやるのになぁ」と言われたのと、そのときに「女じゃ大工にはなれないんだ」となんとなくさみしいきもちになったのを覚えています。今も私が男だったら絶対大工になりたいと思っています。現代なら女でも大工になれるし、いらっしゃいますね。でも当時は父の言葉は絶対でしたし女の方の大工さんはいない時代でした。その父ですが、怒ると母に手を上げる、家の中では父は絶対的な存在でとても怖い存在でした。

 年ごろになってからは反抗ばかりしてろくに話もしなくなってしまい、20歳で家を出るまでは父のことが嫌いになっていました。そんな20歳なるまでの10代、自分というものがなかったように思います。やりたいこともなく、高校を決めたのも親の意見と当時好きだった人が受験するから。そんな単純なきっかけでした。発表当日私は家に泣きながら帰りました。当然家族は「落ちたのか?」と聞いてきました。でも私は「受かった」と一言だけ伝えると部屋に閉じ籠りました。その涙のわけは、好きだった人が落ちたから。その当時はそれだけで本当に悲しかった。高校入ってからは遊びとバイトざんまい。当然勉強はおろそかに。高校は商業高校だったので当時簿記は必須。3級取得で高校卒業することが当たり前。でも私は4級までしか受からなかったけど先生はなんとか卒業させてくれました。今でもそのエピソードは友達には笑われます。
 「4級で卒業できたのはお前ぐらいだ」って。
 
 実は実家にいたときの父との思い出で2つだけとても強く残っていることがあります。1つ目は私が中学のときに父が自分の家を建てたこと。そのときは本当に嬉しそうでした。2つ目は18歳で車の免許を取って少し経ったときに父から行きつけの飲み屋さんへ行こうと誘われて、1度だけ私が運転をして2人で出かけたこと。カウンターに座って飲み屋さんのママに父はとても嬉しそうに話をしていたのを覚えています、たった1度だけですが。高校卒業後すぐに就職、20歳で今の夫と同棲してすぐに結婚。家を出てからは少しずつ私の父への気持ちが変化し感謝するようになり、旅行が好きな父と母と毎年一緒に行っていました。その父も60代前半ぐらいからいろいろと病気をして73歳でなくなるまで10年近く施設で過ごしていました。亡くなってからじわじわと父の偉大さや、優しさ、愛、いろいろなことを思い出せるだけ感じました。怖い! と勝手に思い込んでいた父、今なら愛情から私のことをめいっぱい心配していたんだろうと理解できます。もっとたくさんいろいろ話したかった。もっと大工のことを聞いておけば良かった。もっともっと、と、たくさんの後悔の気持ちが湧き上がりました。

 そして、今私はスピリチュアルを学び仕事にしています。それによって私は大好きな父の魂と会話しながら私も父も大好きだったドライブをたまにしています。そこにもう怖い父はいません。いつも穏やかな笑顔で私のドライブに付き合ってくれています。亡くなってから何年もたちましたが思い出されるのが怖い父の顔ではなく優しく微笑む父の顔。いつかどこかで生まれ変わった父との再会できたらどんな人になっているのだろう? 感情を表すのが不器用で人一倍仕事への情熱があり、怖かったけど本当は優しかった父が大好きです。

 実はこの本を、まず自分の過去から書くと決めてからそこでしばらく手が止まりました。
 嫌いだった自分の過去を振り返らなきゃと思ったとたん思い出すことが苦痛になったんです。ここでまた気づきます。自分の過去をまだ認めていなかった。私がこの地球に生まれてきて今までのすべてを否定してしまっていたことを。スピリチュアルを学んでから潜在意識を書き換えたりブロックをはずしたり、癒やしたりいろいろとしてきたのに。一番大切な自分の人生、過去も未来も愛すべき大切な私の人生です。自分のすべてを受け入れ許し癒やすことができたことでやっと書くことができました。改めてこの本を書くことをすすめてくださったことに感謝しました。

結婚生活で学んだこと

 私は中学生の半ばぐらいから親の存在をうるさく思い、早く家を出たいとずっと考えていました。
 17歳のときに出会った人と20歳で同棲し始めます。そのときは若さからの勢いと家を出ることができる喜びとでワクワクしていてさみしさはありませんでした。母には決めてからすぐに言うことができたのですが、怖かった父へはなかなか言えず、いえ直接は言えなくて、伝えた方法は車の中に手紙を書いて置いただけです。それも引っ越しのたった1週間前。それを父がいつ読むか、恐怖の時間でした。絶対に怒られて反対されると思っていたから。父が建てた家のリビングは1階にあり私の部屋は2階で父に「ちょっと下に来なさい」と呼ばれたときは心臓かバクバクです。でも読んだ父からの言葉はとても穏やかで「お前が決めたのなら、わかった、頑張れよ」と。私も子どもを持った今、考えるとものすごくさみしかっただろうなと、思い返しながら書いていて涙が出ます。

 同棲してから4カ月後に籍だけ入れました。籍を入れるときも私は軽く考えていたのですが、義理の両親は熱心な宗教をしていました。籍を入れるにあたって私もその宗教に入ることを強制されました。義理母から「入らなきゃ戸籍取り寄せないぞ」と言われ、それも心の中では嫌だ! と思っているのに拒否できない、自分の意見を通すこともできない自分でした。そこで私の出した結論は「入ってもやらなければいい」。争いごとが嫌い、私が我慢すれば収まることにはとことん我慢してきました。でも、やらなければいい、は許されず集会に出ることを強制されました(今考えると全然強制されたわけじゃなかったんですが)。いえ、勝手に強制されたと思い込んでいました。そう思って参加しているとどんどん嫌になっていくのははじめから嫌々で入っているので、当たり前です。

 何年か後に我慢の限界で義理母に泣きながら怒りながら嫌な気持ちを伝えることになりました。そのときにやっと「じゃあやらなくていい」と言われましたが、やめさせてはくれませんでした。本当は宗教は自由だから自分でやめると決めれば良いだけなのに。そのことに気づいても夫には怖くて言い出せない。結婚生活のはじめに何度も何度も宗教のことでは大喧嘩してお互いの理解は無理でした。それもお酒を飲むと強烈に出てくるので。でもその何年か後に簡単にやめることができました。無理だと思っていたのは自分だけでした。義理親と夫は知らないことですが。やめられないと勝手に自分が決めつけていただけなんだと知ることになりました。

 そうして始まった結婚生活。付き合っていたころには知らなかった夫の酒癖。
 普段はとても優しい夫なのですが、お酒が入ると人が変わる、今で言うDVです。
 死んでしまうかと思うような恐怖と怪我を何度も味わいました。そんな思いをしていたならなぜすぐに離婚しなかったのだろう? 逃げなかったのだろう? 何度も思っても行動しなかった。まだ好きという気持ちが上回っていて「この人をなんとか変えよう」と使命感や責任感みたいに勝手に思っていて[酒乱][酒癖]いろいろ調べて治す方法をたくさん試してみました。でも変わらず、私の根底にはすべてに「私が我慢すれば」「人が悪い」という根深いものもありました。結婚生活は我慢するのが当たり前。実は私の母がそうでした。父もカッとなると手を出す、それに耐えて父が亡くなるまで離婚はしませんでした。そして私は同じようにしてきたんです。でもそれが1度だけ私が崩れたときがありました。結婚して3年後の23歳のころ勤めていた仕事場でよく遊んでいた同僚に告白され不倫をしたことがありました。すぐに発覚してしまうことになり、そこからは大変な修羅場を経験しました。そのとき夫は最終的には許してくれたのですが、これはすごいことだと思います。相当つらい決断だったろうと。私はというとストレス性の胃潰瘍と、その後何年も頭に何個も500円玉の円形脱毛症に悩まされることになったのですが(これは恥ずかしいことに自分では気づかず美容室の人から伝えられたことです)。

 そしてその気持ちと経験はまた私に罪悪感や申し訳なさからの我慢を植えつける結果になりました。その気持ちも今はなくなりました。なぜ根深いと思っていたたくさんの気持ちがなくなっていったのか? それは後の章でお話しします。ずっとそこに自分が自分で縛っていたんですね。そして、「人が悪い」と思っていたのでその人を変えようとするとどんどん出てくるのです。その人の悪いと思っているところが。その[悪い]ことを責めて反省させる。そこに一生懸命でした。だって当たり前に不倫した私も悪いし、殴ったり蹴ったりして暴力振るう人は悪いに決まってるでしょ! と。

 でもあるときふと、自分はどう? 嫌いな自分はどうなの? 他の人を羨んで自分は悲劇のヒロイン? 私は正義? 正しいの? えっ? とたくさんの疑問が芽生え始め、そのとき人生で初めて自分にフォーカスすることをし始めたスタートの時期でした。そこから少しずつ私の大切な人生が変わり始めました。まずは自分の中身を見つめ直すことから始めてみました。良いところが1つもないと思っていた私にも友がいる。自分の思っている通りの自分だったら、それが他の人だったら? 1人も友達はいないはず。ではなんで友がいる? 私にも良いところがあるのかな? 小さなところからの良いとこ探しの始まりです。嫌いなところ、好きなところを全部書き出してみました。書き出してみるとたくさん出てきました。

 [おおざっぱ、口下手、とろい、ブス、中途半端、暗い、ネガティブ、自分が嫌い、心配性、人見知り、など]嫌いなところは延々と出てくるのに好きなところは書けない、出てこない。出そうとすると出てこないので先に進めないから、そこからまずは出てきた嫌いなところのその言葉をひとつひとつ違う面からの言い換えを考えてみたのです。はじめは少し難しかったのですがやりだすと面白い。嫌いだと思っていたところ、ダメだと思っていたところ、全部が変わって見えた瞬間でした。少しだけ例をあげると[おおざっぱ→細かいことを気にしない][優柔不断→柔軟性があり物事をよく考えて決める][話すのが苦手→話を聞くのが得意]たくさんあった自分の嫌いなところが実は良いところでもあったのです。

 私の人生の変化にはすべてが必要な出来事で、必然な出来事です。
 人生いろいろなことがあって面白い、この結婚生活は私が選んで私が決断した私の大切な経験です。夫とは離婚へ向けて別居中の今、自分の人生この先をどう輝かせるか、どうなっていきたいかイメージ中です。

すべてが中途半端でネガティブ

 子どものころからやりたいこととか、夢とか何も考えなかった、というか考えようともしなかったので親に言われたことを嫌だと言わずにやるのが私の中では普通。
 ピアノ、そろばん、習字、英会話、習い事もすべてが中途半端で長続きしませんでした。だから親は、次これはどうかな? と一生懸命考えてくれたのだと思いますが。ピアノ、弾けません。そろばんも計算方法覚えてません。習字、字はきれいではありません(母は習字の先生をしていましたが)。英会話もしゃべれません。
 なんで通っていたのだろう? 今でも不思議です。1つぐらい身についていても良さそうなのに。そう、親は何か1つでも身につけてほしいと思っていたのでしょう。見事に親の期待とは外れちゃいました。

 そして潜在意識に深く記憶されたのが、「どうせ私は何をやってもダメなんだ」「どうせ私なんか」そんな自分だから何をやっても面白くないし身につくわけないのです。面白くないから楽しくないから続かないのです。親の言うままただ行っただけ。何か思い出しながら書いていたら、何も楽しいこととか面白いこととかなかったのかな? 暗いな。と一生懸命思い出してみましたが、ないはずはない。んっ? たぶんたくさんあったはず。思い出せない。あれっ? 困った。面白いほどに思い出せない。もうね、今笑っちゃいました。ネガティブって強いんだなぁ~って、改めて感じて逆にすごい。

 今思うと、あーなんて私の自己価値の設定低いんだって思います。自分の価値を0に、いやむしろマイナスぐらいに設定していたのです。マイナスだったら生きている価値ないじゃんと何度も「死んじゃいたい」と思ったことがありました。でもその死ぬこともできなかった。その自分を何もできない情けない「何をやっても中途半端でダメな人間」とまた価値が低くなる。本当に振り返ると暗い! 今思い出しながら書いていて笑えてくるほどです。そして今はそばに言って声をかけてあげたい。「大丈夫だよ」って。「大好きだよ」って。「中途半端万歳」って。このときに戻ってその言葉を言ってあげられて抱きしめてあげられるのもスピリチュアルに出会って良かったと思えることのひとつです。そしてこのときの私があるから今があり、変わりたい! と思うこともできたのでどんな出来事もありがたいと思えるようになり、自己価値が低かったときの自分も丸ごと愛することができています。

 自分の価値って誰が決めるんでしょう。他の人ではなく自分で、自分が決めるのです。そして本当はすべての人には価値があります。それを自分で低くしたり高くできたり、決めるのは自分です。決めているのは自分です。だから低いと思ったら高くすればいいだけ。簡単なのにそれを難しくしているのも自分です。そして中途半端の反対語は完全とか、完璧です。ネガティブの反対語はポジティブ。私が自分で完璧完全だと思っていたら何も変化はなかったでしょう。そもそも完全完璧を求めていた? この世に来たのは中途半端で不完全であるからそれによって経験し体験して気づき学ぶこと。中途半端やネガティブってマイナス的に思われることが多いですが(以前の私は完全にマイナスに思っていましたが)、決してマイナスではなくそれがあるからたくさん気づけて前進できて知ることがたくさんある。むしろ中途半端でネガティブはダメだからと自分を全否定してしまって無理やりポジティブ思考にしようとすることをしちゃうことで余計に苦しくなっちゃいます。まずは認めて感じていることを出してみる。全部大丈夫です。

白か黒のどちらか

 物事や出来事を白か黒か正しいか間違っているかのどちらかジャッジする。食べ物のことでもそうでした。社会のルールに対しても、この絶対的な正義、今はいろいろなことで取れてきましたが、以前は真ん中のグレーの色や他の色は私の中にはなかったのです。例えば、あれは良くてあれはダメ。これが正解であれは不正解。これが正義であれは悪。だってそれが当たり前でしょ。その2つのどちらかの選択のみで、真ん中のグレーの人は許せない。小さなころに見ていたテレビでは正義のヒーローが悪をやっつける、そんなポピュラーなテレビの中のことですが。これ、結婚生活や子育てでも思いっきりフル活用してきちゃったのです。そうすると私の周りにグレーやいろいろな色の人がたくさん登場してくる。子どもや主人、友人知人。これは自分ももちろん苦しいけど、周りの人も苦しめてしまう、負のループ。だって私が正義で私が正しいあなたやあの人は間違っている! をみんなに押しつけちゃっているのです。ここで不思議なのは自分に自信がなく自分のことは信じられないのにその自分の中の「白、正義」の部分は絶対的に信じている。それは自信がないし、たくさん傷を受けてきた自分を必死で守ろうとしてたくさんの自分の体に鎧を着てその上に着ぐるみを着て必死で自分自身を守ろうとしてた。

 そして、すべてにジャッジしていたときは自分で自分を苦しめて、他の人が理解できない。もちろん自分が自分にもジャッジするのです。そして責めて責めて苦しくなる。
他にも人が悪い自分は悪くない、と、嫌なやつ。いろいろな人が色ってたくさんあっていいんだよ、と教えてくれたのに、「そんなわけない」と。そしてまた人には嫌われたくないと、その思いがややこしく自分の中で我慢する。とってもめんどうくさいやつだった自分です。そしてノージャッジの意味。それが理解できるまですごく長い時間がかかったけどやっと理解することができました。みんながそれぞれ悪でも正義でもなくて誰もが人それぞれで良くて誰もがとっても価値があり今がベストな存在。でもその白か黒しかない自分が子育てをしてきたので自分の子どもを見ているとそれをだいぶ受け継いじゃっている部分があります。それも本人が心で理解するまで首を長くして見ていようと思う。これからいろいろな経験をするだろう、そこでたくさん学びなら。誰が何を言っても自分が自分で心から理解しないと変われないのは私が一番よく知っているから。

 自分の人生、自分で選択して自分で作ってきた人生、何かここまで書いていたら面白くなってきました。小学生と高校生でいじめも経験しましたが、なんとか乗り越えてきた。人生は乗り越えられることしか起こらない。乗り越えること、必要なことを体験経験したくて来たから。自分が嫌なやつ、嫌いなやつ、ダメなやつ、これもすべてがジャッジ。これがあったからここから学習して変化してきた。今まで私に関わってきてくれた人たち、それに気づくことができたことすべてにありがとう。

この記事を書いた人

竹本祐子

竹本祐子

1964 年東京産まれ、3 歳から埼玉で育つ。高校卒業後ガソリンスタンドの経理の仕事に就く。その後 17 歳で付き合った人と 20 歳で神奈川に引っ越しそのまま結婚。結婚してから知った夫の酒乱とずっと向き合いながら、30 歳で娘を、33 歳で心臓病の息子を授かる。そのころネットワークビジネスを教えてもらいしばらくそこで健康などを学ぶ。痔や、子宮がんを患ったことから健康の大切さを実感し、食を変える。そのときに卵、乳製品、白砂糖を使わないナチュラルスイーツのディプロマを取得する。自分の人生を好転させたくてずっともがいていたところでたくさんのスピリチュアルと出会い資格を取得。学びながら 180 度変化させた。その学びを今たくさんの人たちに届けるために発信中。